この記事では、強制力の効用とそれを自分に課す方法を考えていく。

書く・喋ることがなぜ大事かと言えば、それにより概念を言葉にする強制力が働くからだ。書くということは概念を言葉にすることを必要条件とする。

このように、したいことを必要条件に含むことをすれば、それが強制力として働き、実行が促される。言葉にするということそれ自体ではどうすれば達成されるのか不明瞭だが、書く・喋ることは他人に承認されるという動機が付随するので、行動しやすくなるのだ。

他にも、「筋トレをする」ではなく「ダンベルを持ち上げる」、「勉強する」ではなく「他人に教える」、「考える」ではなく「ブログを書く」などが考えられる。

何か具体的な行動をとりたいが、やる気が出なくて動けないというときは、こういう強制力のある、とりたい行動を必要条件にもつ行動を考えればよいということになる。

そもそも人が行動するとき、それは自発的なものか強制力が働くものかの2通りしかないと思う。自分がするべきだと思う行動をその2通りの型に落とし込むことが文字通り人生を変えることに他ならない。

人が娯楽を楽しむのは自発的なものだし、嫌々でも仕事にいくのは強制力が働いているからだ。

すべての行動が自発的なものであるのが理想的だが、現実には難しい。世の中に1日中好きなことだけをし続けて終わるという人がいたら、それは仏陀レベルの覚者だろう。そうではなくとも、それなりの結果を出すためには、どうしても強制力を使った行動が必要になる。これを捨ててしまえば、その人は退廃者となるだろう。

強制力とは進んでそれをしたいと思うというよりは、それをしないことが避けられないということだ。自発性を発揮できない行動には強制力を使う手以外は今のところない。

行動に自発性を付加するには、その行動が自身の生存に有利に働くことを実感できれば

よい。このような行動を私たちは価値のある行動と言う。価値のある行動をするとき、人は幸せを感じる。もっとその行動をとりたいと感じる。基本的にはそういう行動で1日を充実させたいものだ。その逆で、自身が嫌だと感じるものは、生存を脅かすと感じられるものだ。嫌だと思う気持ちが行動を妨げるなら、その行動が生存を脅かすものではないと明確に実感すればよい。

つまりは、何かを行動に移す方法を考えるときは常に、それが生存に役立つものであることを明確に実感することを考えることに他ならないということです。この時に、ディベート思考は役に立つと思います。

生きる理由

 なぜ人は生きるのかという問題は、年代を問わず人々を悩ませる。生きる理由とは何なのか。そもそもその答えは存在するのか。

 まずは生物としての人間という観点から考えてみよう。人間は、人間という前にまず生物である。そして、生物の生きる目的とは、自らの遺伝子を後世に残すことに尽きる。これに依ると、生物の一種である人間の生きる目的も、他種の生物と同じく、自らの遺伝子を後世に残すものであると考えられるだろう。

 実際に、これで多くの人間の感情、行動を説明できる。例えば、セックスに快感を覚え子供を育てるのは、明らかにこの原理に則するものだろうし、腹が空くと食欲が湧くのも生存本能によるものだ。

 しかし、人間の行動には、この原則では説明できないものもある。例えば、自殺や過労死だ。人間以外の動物が、果たして、生きるのが辛いからという理由で自害したり、体力の限界を超えて働き死亡したりするだろうか。無いだろう。このように、人間は、後世に遺伝子を残すという目的にそぐわない行動を取ることが多々ある。

 人間の生きる目的は、他の動物のように単純ではないのだ。

 人間は、自らが納得する信条に従って生き、死ぬ動物であるとも言えるかもしれない。そして、その信条が生物的な本能よりも優先される場合、生物的には不自然であるが、それ故にこそ、人間的であると言える行動を取ることがしばしばあるのだろう。